京都大学構内の遺跡(解説)

はじめに

京都大学の構内には、縄文時代から江戸時代にわたる各時代の遺跡が存在している。吉田キャンパスを中心に、和歌山県白浜町の瀬戸臨海実験所、京都府京丹波町農学部附属牧場などの構内で遺跡調査がおこなわれ、発見されたさまざまな遺構や大量の遺物は、過去の人々の日常生活や生産活動を復元するための貴重な資料である。

これらの出土資料に対しては、考古学の方法によって研究をすすめるとともに、文献史学や地理学などの人文科学や、建築学、物理学、化学、地質学、動植物学など自然科学の諸分野の研究者の協力も得て、歴史的景観や地形環境の復元、遺物の材質分析など、新しい調査や分析手法の開発に取り組んできた。

縄文・弥生時代の遺跡
縄文時代後期の配石墓(北部構内・1973年度調査)
【縄文時代後期の配石墓(北部構内)】
弥生時代前期の水田跡(吉田南構内・1993年度調査)
【弥生時代前期の水田跡(吉田南構内)】

吉田キャンパスの北部構内には、本学考古学講座の創始者である濱田耕作博士が1923(大正12)年に発見した北白川追分町遺跡が所在する。これまでの調査で、縄文時代中期の竪穴住居跡、後期の甕棺・配石墓、晩期の土壙墓をはじめ、谷状の低湿地からは埋没林やトチの実の貯蔵穴などが発見され、西日本屈指の縄文遺跡となっている。
これらは、当時の生業や食のあり方を検討するうえで貴重な資料となっているほか、自然科学的な分析との総合によって生活環境の復元がされており、縄文時代の学際的研究に格好の場を提供している。

弥生時代の遺跡については、吉田南構内で今から約2400年前の前期の水田や流路が見つかっており、本部構内や北部構内でもこの時期の資料が多く出土、北部構内でも中期の方形周溝墓が見つかっている。
前期の水田は、やがて生じた土石流により瞬時に埋没したものとみられ、地形の微妙な起伏にあわせて細かく工夫された畦の区画や、耕作にともなう地表面の凹凸などが、砂に覆われて非常に良く残っていた。稲作が採用されたころの技術的水準を鮮やかに伝える好例である。

古代・中世の遺跡
奈良時代の石敷製塩炉(瀬戸臨海実験所構内・1982年度調査)
【奈良時代の石敷製塩炉(瀬戸臨海実験所構内)】
平安時代の梵鐘鋳造坑(吉田南構内・1981~1982年度調査)
【平安時代の梵鐘鋳造坑(吉田南構内)】

構内に古墳時代の遺跡は少ないが、吉田南構内では、群集する方墳が発見されている。
奈良時代になると、本部構内の竪穴住居跡のほか、和歌山県白浜町の瀬戸臨海実験所構内で、濃縮した海水から塩を得るための石敷炉や専用の土器類が出土しており、南紀を代表する製塩遺跡となっている。

吉田南・医学部の各構内では、古代や中世の鋳造関連の遺跡が散在し、平安時代中期の梵鐘を鋳造した土坑とともに、鋳型や炉の残片が発見されている。当時の鋳造技術を復元するための貴重な資料であり、文献にはあらわれない鋳物工人集団の活動が推定できる。
北部構内でも、緑釉陶器、灰釉陶器など、古代の優品が数多く出土しており、この時期にかなり重要度の高い空間であったことがうかがわれる。

吉田山一帯は、古来神楽岡の葬地として著名である。北部構内で発見した火葬塚は、方形の段を形成した特異なもので、皇族クラスの人物の葬儀にかかわる貴重な事例である。
また、病院構内南辺は白河北殿北辺の、吉田南~医学部構内一帯は藤原北家勧修寺流の人々の邸宅に比定され、大量の土師器や瓦器、国産や輸入の陶磁器類が出土している。これらは、編年的研究のほか、生活や流通の実態をさぐるうえでも重要な資料である。

近世の遺跡
轍の残る近世白川道の遺構(本部構内・年度調査)
【轍の残る近世白川道の遺構(本部構内)】
土佐藩邸の南限を画する堀(北部構内・年度調査)
【土佐藩邸の南限を画する堀(北部構内)】

近世の本部構内から病院構内にかけては、聖護院村や吉田村に属する田畑がひろがっており、そこに鴨川のほとりの荒神口から北東に向かって京都と近江坂本を結ぶ、白川道と呼ばれる街道が通じていた。
この道は、幕末期以降、本部構内にあたる部分を断ち切られてしまったが、現在も「山中越」と呼ばれる道筋に名残をとどめている。本部構内の発掘調査では、この白川道や、その前身の中世にさかのぼる道路遺構も見つかっている。

聖護院村の北辺にあたる病院構内南辺には、幕末の歌人大田垣蓮月(1791~1875)が文久年間(1861~1864)に居住したことが知られ、自詠の歌を手づくねの茶器類に釘彫りした「蓮月焼」が多数出土している。
また幕末の動乱期には、本部構内に尾張藩邸が、北部構内に土佐藩邸が設置されたことが古絵図に記されており、関連する堀や井戸などの遺構が発見されている。とくに、北部構内でみつかった土佐藩邸の南限を画する幅約3mの堀からは、大量の桟瓦が出土した。

このほか構内では、旧制高校や帝国大学関係の資料もしばしば出土する。文字記録としては残されていない例もあり、考古学的手法によるこうした時代の研究も、今後重要さを増してくるであろう。

遺跡の調査と保存・修景
復元整備後の鎌倉時代の火葬塚(北部構内)
【復元整備後の鎌倉時代の火葬塚(北部構内)】

京都大学構内遺跡の発掘は、基本的にその大半が、校舎の新営等の工事に先だって実施されるものであるが、調査の結果、とりわけ歴史的資料としての重要度が高く、またキャンパス一帯の過去を象徴すると判断される遺跡については、現地あるいは移築によって保存や復元の処置をとってきた。
北部構内では、縄文時代の配石・甕棺墓群を植物園内に移築復元しているほか、鎌倉時代の火葬塚を庭園に取り込んで現地に復元整備しており、これらはいずれも当時の歴史的景観を彷彿とさせる貴重な空間を形成している。また吉田南内においては、平安時代の梵鐘鋳造遺構を埋め戻して保存したうえ、模型と解説板を設置して整備を進めているほか、瀬戸臨海実験所構内でも、南紀における生業を象徴する資料である奈良時代の石敷製塩炉を移築復元し、水族館とあわせ観覧に供している。

百年を越える学問と研究の空間が形成されてきた本学のキャンパスは、埋蔵文化財のほかに歴史的建造物も多く残されており、それらと調和のとれた共存をはかりながら新たな歴史を刻む方法を模索し実践するうえで、またとない場である。計画的な発掘調査と、調査成果にもとづいた保存修景は、そのためにもきわめて重要な役割を果たすものである。

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