近世・近代の遺構

轍の残る近世白川道の遺構
轍の残る近世白川道の遺構
【轍の残る近世白川道の遺構】

時代細分:江戸時代

調査地点:本部構内 AW28区

解  説:
京都と近江坂本とを結ぶ通称「白川道」の遺構。道幅約4.5mの路面には多数の轍がきざまれており、道路脇には漆喰製の野壺がならぶ。
野壺群の年代から17~18世紀ごろに造作されたと推定されるが、周辺の調査では中世にさかのぼる道路跡もみつかっており、位置を少しずつ変えながら機能したことをうかがわせる。

(京都大学構内遺跡調査研究年報 昭和54年度)

近世の土取り穴
近世の土取り穴
【近世の土取り穴】

時代細分:江戸時代中期・18世紀

調査地点:病院構内 AJ18・AJ19区

解  説:
粘土を採掘するために掘られた江戸時代中頃の土坑。中世から近世初めにかけての土取り穴が不定形であるのに対し、方形の単位を基本とすることに特徴がある。
調査地点が岡崎からほど近く、遺構の年代が粟田焼の陶工が土を求めていた時期と重なることから、焼物用の岡崎土として商われていた可能性がある。

(京都大学構内遺跡調査研究年報 1986年度/京都大学埋蔵文化財調査報告 Ⅳ)

土佐藩邸の南限を画する堀
土佐藩邸の南限を画する堀
【土佐藩邸の南限を画する堀】

時代細分:江戸時代末期・19世紀中葉

調査地点:北部構内 BA28区

解  説:
慶応2年(1866)に設置された土佐藩白川邸の南を画する堀。幅2.9m、深さ0.9~1.1mの東西溝で、方位を真北から東へ約6度ふっている。黄色砂を掘りこんで造られているため水はたまりにくく、空堀であったものと考えられる。
堀からは、土佐の瓦屋の屋号や商標を刻印する桟瓦が多数みつかっている。

(京都大学構内遺跡調査研究年報 1992年度)

阿波徳島藩邸にかかわると思われる瓦積み遺構
阿波徳島藩邸にかかわると思われる瓦積み遺構
【阿波徳島藩邸にかかわると思われる瓦積み遺構】

時代細分:江戸時代末期・19世紀中葉

調査地点:熊野構内 ZZ18区

解  説:
幕末期に描かれた絵図の記載から阿波徳島藩邸が所在したと考えられる地点で、空堀の大溝SD2の埋土内から検出された瓦積み遺構。残存幅5.6m、奥行き0.7~1.1m、残存高0.4~0.5m。積まれた瓦の多くは桟瓦であったが、丸瓦や鬼瓦等も含まれる。
複数の建物の瓦を転用しており、そこには徳島藩主蜂須賀家の「卍」の家紋を表す軒丸瓦も含まれる。この家紋瓦以外には徳島藩との関連を明示する遺物を確認できておらず、同遺構が徳島藩邸に関連する遺構であると断定できるまでには至っていない。

(京都大学構内遺跡調査研究年報 2017年度)

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